Maija Isola(マイヤ・イソラ) art,fabric,marimekko マリメッコを輝かせた、伝説のデザイナー

2013.04.05 Friday 16:15
陽菜ひよ子


晩年は最初の結婚相手との間にできた娘と仕事上のパートナーとして共同制作。
最後は娘や孫たちに看取られて亡くなった・・・なんて素晴らしい人生。

そして、忘れてはならないのが、マリメッコ社との恵まれた関係。
この人には天賦の才があったのだけれど、それを開花させえたのは、やはり
マリメッコ社と言う類まれな社風を持った会社と、その創設者アルミ・ラティアとの
信頼関係に基づくモノだったのだと思う。

もしマリメッコ社以外だったら、その才能を消耗させるだけで終わっていた可能性も
あったのかもしれないし、実際そうして散って行った才能もたくさんあるのだと思う。

以下、興味深い彼女の人生の年表をまとめてみた。
1927年3月15日フィンランドの自然豊かなアロランミ村に三姉妹の三女として生まれる。
父マウノは農学者で、楽器演奏や作詞、詩の創作などに優れていた。
母トイニは地に足のついた活発な性格。村で初めて髪を短くした女性。
長女トゥーリッキは作曲や演奏に優れていたが、身体が弱く、妹たちのように
農作業を手伝うことができず、人形遊びをして過ごしていた。
のちに絵の得意な妹たちをその遊びに引きこみ、人形の家の制作や遊びは
1949年(マイヤ22歳)まで続けられた。
次女のイルマは作曲、絵画、演劇に親しんでいた。

1945年(18歳)春に父マウノ急逝。7月にゲオルグ・レアンデリンと結婚。
1946年1月に長女クリスティーナ誕生。
1946年8月(19歳)芸術大学に入学。(ヘルシンキへ引っ越し)
        (クリスティーナは母トイニに預ける)

1948年夏(21歳)初の海外旅行(ノルウェーのオスロ)。ゴッホやムンク
古い器や壺に心を奪われる。
1949年(22歳)。オスロで見た美術作品に影響を受けて生まれた作品のひとつ
「Amfora」がマリメッコの創設者アルミ・ラティアの目に留まり、商品化される。

この頃、最初の夫・ゲオルグ・レアンデリンと離婚。画家ヤーッコ・ソメルサロ
(ヤスカ)とヨーロッパ中を旅して回る。
ヤスカとの生活の中で、絵画への関心がより高まって行くが、「芸術家」の
彼の前ではアシスタントのようなものだったマイヤは、彼に隠れて絵画制作を行う。
1955年(28歳)ヤスカと離婚後、絵画制作を本格的に始める。

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