名古屋市美術館にて。
ベン・シャーン、すごくよかった。
徹底的に社会的弱者の視点に立った作品たちに対峙して
今のこの時代に、アートの持つ意味を、考えてしまった・・・
この展示を見るまで、日本人でありながら
第五福竜丸のことなど全く知らなかった自分を恥じ入る。
第五福竜丸(第五福龍丸、だいごふくりゅうまる)は、1954年3月1日に、ビキニ環礁でアメリカ軍の水素爆弾実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴びた、遠洋マグロ漁船の船名である。無線長だった久保山愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日生まれ)がこの半年後の9月23日に死亡した。
1954年3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島近海において操業中にビキニ環礁でアメリカ軍により行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー (BRAVO)、1954年3月1日3時42分実施)に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物に被曝[3]した。実験当時、第五福竜丸はアメリカ合衆国が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。後にアメリカは危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻に上るとみられ、被爆者は2万人を越えるとみられている。
予想以上に深刻な被害が発生した原因は、当初アメリカ軍がこの爆弾の威力を4 - 8Mtと見積もり、危険区域を狭く設定したことにある。爆弾の実際の威力はその予想を遥かに超える15Mtであったため、安全区域にいたはずの多くの人々が被爆することとなった。
第五福竜丸がアメリカ軍による水爆実験に巻き込まれて被爆した出来事は、日本国内で反核運動が萌芽する動機になった(→#被爆の影響)。反核運動が反米運動へと転化することを恐れたアメリカ政府は、日本政府との間で被爆者補償の交渉を急いだ。一方の日本政府も、復興のためにアメリカ経済に依存せざるを得ない状況であり、かつ平和的利用のために原子力技術をアメリカから導入できる可能性も出てきた時期でもあったことからアメリカを刺激したくないという思惑もあった[5]。結果、両者は「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」確約の下、事件の決着を図った。1955年に200万ドル(当時約7億2000万円)が支払われた[6]が、連合国による占領からの主権回復後間もなかったこともあり、賠償金でなく「好意による (ex gratia)」見舞金として支払われた。また事件が一般に報道されると、焼津では「放射能マグロ」による風評被害が発生した。
私は渋谷が苦手なのだ。
なぜなら、道が放射状なので、道を一本間違えると、目的地が
どんどん遠ざかって行くからだ。
そこへ行くと、銀座は名古屋と同じ碁盤の目なので、大得意♪
と思っていたのだが・・・
最近、栄とか伏見とか矢場町などでしょっちゅう道に迷う・・・・
なんで?
名古屋で生きて行くのに
自信を失いつつある今日この頃。
ベン・シャーン展の前にランチ。長者町にて。撮影:緒川二月=宮田雄平。
場所: 長者町繊維街
今日のランチ。豚しゃぶのジンジャーソースと湯葉サラダと春野菜のオムレツ。
意外にボリュームがあって、お腹いっぱいになったけど、ついケーキをオーダー。
これにスープ、コーヒー、ケーキつけても1000円ちょっと。
名古屋って、ランチのコスパが高すぎる。
そんなわけで、コーヒーとデザート。
奥のキャラメルオレンジチーズケーキは、めちゃうま。
手前のゆずハチミツのロールケーキはなんと100円なんすよ、ちょっと奥さん!