最近よく、わたしのかくものには「独特の世界観がある」といわれる。ひよこにしても小説にしても。自分では自分の世界ってどんなものなのかよくわからないのだけど、そう言われると素直にうれしい。
それにしても先生はすごい。絶対にここだけは人前で読んでくれるな、と切なる思いで講評を受けていると、見事にそこを引用してくださる。多分先生には、私が自分でも気づいていなかったり、隠そうとしている内面も、全部お見通しなのだろうなぁ。考えてみれば恐ろしいことだし、「うわあぁぁぁぁぁぁぁっっっっ」と穴があったら入りたいような気分なのだけど、なんだか慣れて来ると、それが快感に思えて来る、かも。
ひよこに関しては、というよりブログに関して、最近すごく感じるのは、「ネタ的な面白さよりは、かき手の日常に共感される方が 食いつきがいい」ということである。
ある方にひよこに関する意見をもとめたとき、「文章が長過ぎる」といわれて、なるほど、と思い、改めようとしたのだけど、たしかに極端に長いと読まれないかもしれないが、短ければいいのかというと、そうでもないようなのだ。
むしろある程度長く自分の雑感などをのべた方が、私のブログに来る人には、コメントがつきやすいのだ。私自身のブログに関する姿勢と同じなのだろうか、ウチに来てくれる人は、総じてコメントが長い。みんな本当に申し訳ないくらい丁寧に見てくださる。 もしかしたら、それが私の世界観と何か繋がっているのかなぁ。
モノを作る事は、楽しいけれど大変な事だ。よく言われるけど、それはまさに、果てしない宝探しの旅に出たようなものだ、と思う。遠くけわしい、簡単に宝物が見つかることのない旅。見つかったとしても、自分にしかその価値がわからなかったり、最初はうんと安っぽいものだったりするかもしれない。それでも一度旅に出たものは旅をやめることはできないのだ。その宝探しの旅に、きっと戻り道はないのだろうな。
今日は物書き講座の最終日だったので、プチ打ち上げをした。その中で語り合ってしまったのが、先程の話とは矛盾するようだが、特に女性の場合、結婚・出産などを経て、書くのをやめてしまう人と、ずっと書きつづける人の違いって何なのだろうという事。
どんなに環境が変わっても、人の核になるものって変わらない。こうとする人は、どんな環境でもやっぱり書きつづけるのだ。そしてそういう人は、何かしら「書かざるを得ない」モノを持っているのだと思う。書いていてやめてしまう人は、結局その 「書かざるを得ない」モノを持っている人ではなかったのだろう。もしかしたらただ「書き手」になりたかっただけなのかもしれない。そんな結論に達した。そしてわたしは書きつづけるのだろう、ということも。