サントリー美術館開館記念特別展「ロートレック展 パリ、美しき時代を生きて」

080224lautrec.jpg随分久しぶりの日記となってしまいました。
3月はどうも毎年慌ただしく、ブログのアーカイブを通じてみても、あまり更新できない月のようです。

ロートレック展、とっくに終わってしまっていますが、ちょうどひと月ほど前の2/24(日)に行ったのでした。わたしたちが会場に着いたのは13時頃でちょうどお昼時。既にお昼はすませていたので、そのまま観覧。

何事もなくスムーズに入れたのですが、見終わって出てくると、(たぶん15時半頃?)会場前は長蛇の列。どしゃーっ。人気の展覧会の会期後半は、早めの時間に行く事!と改めて心に刻み込んだのでした。


「ロートレック展 パリ、美しき時代を生きて」(サントリー美術館)

ロートレックの絵については、実は今まであまり良く知らなかったのだけど、まだ10代の頃に映画『ムーランルージュ』を見て、彼の生涯については、何となく知っていた・・・・つもりでした。
    
    


            


080224_17551551.jpg貴族の家に生まれ、生まれつきの骨の病気で、脚が不自由となり、下半身だけが成長しなかったロートレック。けれど、彼の脚が悪かったのは、小児麻痺のせいだと思い込んでいたり、36歳で亡くなった事もすっかり忘れていたのです。
(亡くなった原因は梅毒・・・家族に取っては不名誉な事だったでしょう。特権階級に生まれても、身を持ち崩してしまうものなんですね。)

けれど彼の弱い心がまた、芸術を昇華させたとも言えるのかもしれません。モデルを決して美しく描こうとしなかった彼。しかし彼は、人物の顔をとっても丁寧に描いているのを展覧会の序盤で紹介。
ポスターの絵は、ミッドタウンの吹き抜けのエスカレーターにも飾られていて、とっても大きな絵かと思っていたら、想像よりずっと小さな絵(B4くらい?)だったのでした。
080224lautrec2.jpgこの絵は顔だけをじっくり丁寧に描き、体や服装に塗り残しを作る事で、嫌でも見るものの視線を顔に集中させると言う意図を持って描かれたと言います。

イラストを描くときにも、どの部分にも同じように力を入れてはいけない、見せるところとその他の部分への力加減を変えて描く事が必要だと言われましたが、ここまで極端なのはすごいなー。

このロートレック展は、絵の素晴らしさもさることながら、添えられたエピソードのおもしろさにおいても、魅力的な展覧会でしたが、すごかったのが、ロイ・ファラーと言うダンサーの踊りを収録したフィルム。

衣装をフワフワと大きくうねらせながら踊るんですが、その動きが、とても一人の人間が両腕だけを使っているとは思えないほど大きくて、まるで生きているような動き!(う〜。うまく説明できないのがもどかしい)
当時から大人気なダンサーだったそうで、彼女をモデルにした彫などもたくさん残されており、ロートレックも彼女に着目して絵を残したのですが、当のロイは、全然彼の絵に関心を示さず、ポスター制作はオランダ生まれの画家・マニュエル・オラジ(ちょっとミュシャ風)に依頼。
とほほですね。

オラジがミュシャ風だったように、ミュシャ(1860 - 1939)とロートレック(1864 - 1901)はほぼ同時期の画家だったのですね。
ミュシャを擁護した舞台女優、サラ・ベルナール(1844 - 1923)のリトグラフを1893年に描いていたことで彼らが同時代であった事を思い出したのですが。ミュシャがサラにポスターを依頼されたのが、1894年のクリスマスなので、ロートレックの方が先に彼女を描いていたんですね。

しかし、冒頭にも書いたように、ロートレックは決してモデルを美しくは描こうとしなかったので、彼に喜んで肖像画やポスターをお願いしようと言う女優や歌手やダンサーはいなかった模様。
実際の彼女らの写真とロートレックのポスターを並べてみても
「何コレひどい〜」
と思わずつぶやいてしまうほどの不細工なできばえ。何でしょう?にんげんの本質を描きたかったのか、それとも女性に対する根深いコンプレックスがあったのでしょうか。

長い黒手袋がトレードマークのスター歌手・イヴェット・ギルベールは、その生き生きとした歌唱スタイルから、彫刻や写真など様々なメディアでモデルとなりました。中でも、彼女の表情や仕草をギリギリまで強調して描いたロートレックの作品が一番彼女らしさを表現していると言われてるそうですが、そういった場合、本人的には「何もここまで・・・」と思うものなのでしょうね。

最初、イヴェットはロートレックにポスターを依頼するつもりだったのですが、彼の描く彼女の顔があまりに醜いので、結局スランタンにポスターを依頼。
会場には、ロートレックが描いたデッサン(と言っても無駄に巨大)と実際に使用されたスランタンのポスターが並べて展示されていましたが、確かにスランタンの描いた方が美人。

ポスターとしてはきっと、ロートレックに描かせた方がおもしろいものが出来たでしょうが、イヴェットの女心や歌手としての気持ちもわかります。
わたしだとて、肖像画や写真をもし頼んだとして、すごくアートでも、自分が不細工に描かれているよりは、素人作品でも、かわいく描いてある方を選びますもん!

まぁイヴェットの場合、ポスターは断りましたが、その後アルバムという画集を制作。ロートッレクの絵がふんだんに使われています。
そしてその顔は・・・まさしくイヴェットが「お手柔らかに」と彼に懇願したそのまま・・・・イヴェットはどんな心持ちだったのでしょうね。

「本人より醜く描く画家」という評判が先行し、女性モデルからはことごとく逃げられたロートレックですが、(そりゃ、絵の好みとは別にして、ロートレックに描かれるよりは、ルノワールに美しく描いてほしいのが女心でしょう。)男性からは人気だったようで、人気芸人(?)・アリスティド・ブリュアンは、ロートレックのポスターを採用しない限り、出演しないとキャバレーの支配人を脅して使用させたとか。

このポスターも、アリスティドの破天荒で不遜な姿が生き生きと描かれてはいますが、明らかに本人よりはかっこわるく描かれています。おもしろいものですね。

そしてそんな女優や歌手などと並んで、ロートレックが好んで描いたのは、娼館の娼婦たちでした。客に決してプライベートを覗かせない彼女らの心を解きほぐすのに、彼は何日も娼館に泊まり込み、彼女らのありのままの姿を描く事に成功したと言います。

その結果、アル中と梅毒で苦しみ、精神を病んで亡くなってしまったわけですが。

晩年の彼の作品は精彩を欠くと言われていますが、馬の絵のデッサンの確かさなどは当たり前ですが見事です。
この作品展自体が晩年のロートレックに焦点を当てているので、途中見たヴィデオに登場した少年の頃の絵などは登場せず、ちょっと残念。

しかし、19世紀末、パリが一番輝いていたベル・エポックの時代に、モンマルトルの歓楽街の中を駆け抜けるように生きた、彼の短い生涯を垣間みるには、とてもいい展覧会だったように思います。

Wikipedia ベル・エポック
◇ベル・エポック
ベル・エポック(Belle Epoque 仏:良き時代)とは、厳密な定義ではないが、主に19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代、及びその文化を回顧して用いられる言葉である。
19世紀中頃のフランスは普仏戦争に敗れ、パリ・コミューン成立など混乱が続き、第三共和制も不安定な政治体制であったが、19世紀末までには産業革命も進み、ボン・マルシェ百貨店などに象徴される都市の消費文化が栄えるようになった。
1900年の第5回パリ万博はその一つの頂点であった。
単にフランス国内の現象としてではなく、同時代のヨーロッパ文化の総体と合わせて論じられることも多い。
また、ベル・エポックと対比して、1920年代をレ・ザネ・フォル(Les Annees Folles 狂乱の時代)と呼ぶことがある。


ロートレックとは はてなダイアリー
Toulouse-Lautrec(1864-1901)。

本名、アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック。

19世紀後半−20世紀前半のフランスを代表する画家。
写真は、当時流行しはじめた写真に興味を抱いたロートレックが、フォトモンタージュしたもの。

ルソーの著作にも軍人だった先祖の名前が見られる、名門・トゥルーズ伯爵家に生まれる。実家はトゥルーズから車で一時間ほどの距離にある「赤い町」アルビにあった。地方貴族にありがちな、近親結婚がくりかえされた結果、(父母ともいとこの関係にある結婚だった)が原因になったのか、アンリは幼少時からあまり壮健ではなかった。
13歳の時、椅子から立とうとして転び、左大腿部を骨折、治療しても骨は、どうしてもつながらなかった。さらに翌年14歳で右大腿部の骨までを、松葉杖で散歩中に沢に落ちて骨折。これらの事故のせいで、彼の両足の発育は完全にとまってしまった。

もともと、夫の伯爵には浮気を繰り返され、別居していた母は、息子のためだけに自分は生きようと心に決めていたが、こうした不幸な息子の身の上は、彼女を自責させ深く嘆かせた。こうして思春期のころから油彩画での自己表現に熱中。

パリに出たロートレックは、当時の人気絵画モデルであり、後にユトリロの母ともなるシュザンヌ・ヴァラドンとも恋愛をするがやがて破局。1890年には親友のゴッホがアルルでピストル自殺未遂をおかし、後に精神病院で死亡。

こうした深い痛手を乗り越え、1892年から、彼を一躍有名にするムーラン・ルージュのポスターや踊り子たちの肖像が描かれる。ドガを尊敬し、同じようにオペラ座でのバレリーナなどの習作をまねたこともあったがより人間らしいモチーフを求め、娼館に入り浸っていく。アルコール中毒と性病によって冒されたのも、このころからだ。

34歳で、激しいアルコール中毒(アブサンによるものだったと言われている)による発作をおこして、そのまま、彼の身を案じて、パリのアパルトマンで暮らしていた母の伯爵夫人に、ヌイイにある病院に強制入院させられた。
退院後も飲みながら描きつづけるスタイルに変化はなく、再度激しい発作を起こし、入院。結局1901年、自分の死期をうすうす感じたロートレックは、アトリエにある気に入らない作品を処分し、描きかけの絵を完成させ、同年9月、母のマルロメの館で36歳で息を引き取った。

最後の言葉は「お母さん、本当にあなただけですよ」。


Wikipedia アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
トゥルーズ=ロートレック
アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック(ロトレック)
(Henri de Toulouse-Lautrec, 1864年11月24日 - 1901年9月9日)は、19世紀のフランスの画家。日本では慣習的に「ロートレック」で呼ばれるが、正しくは「トゥルーズ=ロートレック(ロトレック)」と呼ぶ。

南仏のアルビで生まれる。ロートレックの生家は、フランスの名家であり、伯爵家である。祖先は9世紀のシャルルマーニュ時代までさかのぼることができる。父のアルフォンス伯は、奇妙な服装をするなど、変わり者で有名であった。

ロートレックは、幼少期には「小さな宝石(プティ・ビジュー)」と呼ばれて家中から可愛がられて育ったが、13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折したために脚の発育が停止し、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。胴体の発育は正常だったが、脚の大きさだけは子供のままの状態であり、現代の医学者はこの症状を骨粗鬆症や骨形成不全症といった遺伝子疾患と考えている。
脚の不自由だった彼は、しばしば疾走する馬の絵を描いている。

1882年にパリに出て、当初はレオン・ボナの画塾で学んだが、まもなくして画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移り、以後は晩年まで同地で活動するようになった。 なお、コルモンの画塾ではファン・ゴッホ、エミール・ベルナールらと出会っている。

絵画モデルであった、マリー=クレマンチーヌ・ヴァラドン(後のシュザンヌ・ヴァラドン)のデッサンの才能を高く評価し、彼女が画家となるきっかけを作った。彼女をシュザンヌと呼び始めたのもロートレックである。

画家自身が身体障害者として差別を受けていたこともあってか、娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感。パリの「ムーラン・ルージュ(赤い風車)」をはじめとしたダンスホール、酒場などに入り浸り、デカダンな生活を送った。そして、彼女らを愛情のこもった筆致で描いた。
作品には「ムーラン・ルージュ」などのポスターの名作も多く、ポスターを芸術の域にまで高めた功績でも美術史上に特筆されるべき画家であり、「小さき男(プティ・トンム)、偉大なる芸術家(グラン・タルテイスト)」と形容される。

かれのポスターやリトグラフは日本美術から強い影響を受けている。1901年8月20日にパリを発ち、母のもとへ行き、同年9月9日、マルロメで母に看取られ死去した。享年37。

なお、ロートレックを扱った映画としては『赤い風車』 (1952年、アメリカ映画)映画『葡萄酒色の人生』(1999年、フランス映画)映画『ムーラン・ルージュ』(2001年、アメリカ・オーストラリア映画)がある。


Wikipedia アブサン
アブサン(仏:absinthe。アブサント、アプサンとも)は、フランス、スイス、チェコ、スペインを中心にヨーロッパ各国で作られている、薬草系リキュールの一つで、ニガヨモギ、アニス、ウイキョウ等を中心に複数のハーブ、スパイスが主成分である。
日本では、有名な商品名であるペルノー(仏:pernod)を一般名詞的に呼ぶ場合がある。ペルノーという呼び方は、同社のもう一つの有名な商品であるアニス酒を指す事もある。

◇特徴・飲み方
アルコール度数が高く70%前後のものが多い。低いものでも40%程度、製品によっては89%を超えるものもある。薄く緑色を帯びており、水を加えると白濁する。色と白濁の度合いは製品によって大きく異なる。

他のリキュール類と全く異なる、特殊な香りと味を持っている。それは万人受けする特質ではないが、その外観も含めて魅惑的な要素が強烈で、一度好きになると手放せないと言われている。

そのまま飲む事もあるが度数が高い為、水で薄めて砂糖を加えたり、角砂糖に垂らして食べたりする方法が知られている。特異な香気がある為カクテル材料としても用いられる。

◇誕生から禁止、解禁まで
元々はスイスのヴェルト・トラ・ヴェルで作られていたニガヨモギを原料とした薬を医師ピエール・オーディナーレが、蒸留を応用し独自の処方を発案。彼はその製法を1797年に、アンリ・ルイ・ペルノーに売却。ペルノーが商品化した。

特に、19世紀フランスの芸術家達によって愛飲され、作品の題材とされた。安価なアルコールだったために多数の中毒者・犯罪者を出した事でも知られる。アブサン中毒で身を滅ぼした有名人としては、詩人ヴェルレーヌや画家ロートレックが居る。

ニガヨモギの香味成分であるツヨンにより幻覚等の向精神作用が引き起こされるとされ(現在ではツヨンが原因によるアブサン中毒は疑問視されている)、19世紀初頭、フランス(1915年3月17日)を中心にスイス・ドイツ・アメリカなどでアブサンの製造・流通・販売は禁止された。この為ニガヨモギを用いないアブサンの代替品として、パスティス(フランス語の"se pastiser"似せる、を由来とする)が製造された。一方、スペインなど禁止されていない国もあった。

その後、1981年にWHOが、ツヨン残存許容量が10ppm以下(ビター系リキュールは35ppm以下)なら承認するとしたため、製造が復活。禁止国であったスイスでも2005年3月1日に正式に解禁された。製造が禁止されていた期間にも、販売を目的としない小規模な製造に付いては殆ど取り締まりがなかった為、フランス・スイス等を中心とする欧州の各地に自家用のアブサン醸造家が存在した。

この期間においても日本ではニガヨモギ抽出物が食品添加物(既存添加物)として使用が許可されていた為、ペルノーが一般的な流通ルートで輸入されており、サントリーなどの国産品もあり、洋酒販売店やバーにおいてはそれほど珍しい酒ではなかった。

Comments

kaco@SOHO ... 2008/03/22 11:13 AM
わ、そういうことかー。
…というのは、けっこう好きで読んでいる筒井康隆の小説に「ロートレック荘事件」というのがあって
(この話自体「仕掛け」が有って、必ず2回読むはめになるのだけど)
主人公が事故で下半身が成長しない…というエピソードが含まれていて
ロートレックの絵も出てくるけど、そこまで深い伏線、というかひっかけだとはとは知らなかったっすよ。また読んでみよう。
(あれ、この話前にもしたかも?)
----
ミュシャ、ってふっくらしたご夫人の絵のアレ、ですよね?うーん、やっぱり描いてもらうとしたらミュシャ風、かなぁ(笑)


ひよこ ... 2008/03/25 03:14 AM
kacoちゃんごめんね。
実は一緒に見に行った友人のすすめで
「ロートレック荘殺人事件」を今まさに読もうとしてて
このコメントの冒頭を読んで
「あらネタばれ?」
と思ってしまい、思わず閉じてしまったのでした。
これから楽しみに読みますわ〜

そうそう、ミュシャと言えば、アールヌーヴォーを代表する人で
植物に彩られた美人のポスターで有名ですよね。
あんな風に描いてもらえたらよいよね。

肖像画家としては、ルノワールがやはり大人気だったようで
わたしとしては、彼はかわいい女性を描かなくなった、印象派を捨てた
後期の絵の方がずっと魅力的だとは思うけれど
美人に描いてくれるなら、文句はないかも。


kaco@SOHO ... 2008/03/26 09:05 AM
うあああごめんーーー
んでも前に書いたコメントは「仕掛け」のネタバレではないのでご安心を。
もう最初から出ているエピソードなので、ロートレックを知っている人には当たり前の知識なのだろうなと>骨折云々
それを知らなかったのですぅ。うう。
やっぱ広く浅い雑学系の知識は必要だなぁ。それによって理解や楽しみもさらに深まるよね。
2回読んでね(はぁと)


ひよこ ... 2008/03/27 02:05 AM
kacoちゃん
ああ、ごめんね〜!!
kacoちゃんは全然悪くないのですよん。
今だいぶ読み進んだんだけど、貸してくれた友人からも
「結構読みづらい」
と言われてます。理解力がひよこ並みのわたしは
5回くらい読み返す羽目になるかも・・・
頑張るわー(はぁと)

kacoちゃんは雑学あると思うよん。
でも全方面をカバーって厳しいよね。
たまたまわたしは美術系には強いけど、
全然知らないこともあるし・・・
興味ない事は全然頭に入らないし〜。
(年のせいかひよこ頭のせいなのか、微妙・・・)


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