Maija Isola(マイヤ・イソラ) art,fabric,marimekko マリメッコを輝かせた、伝説のデザイナー

image.jpgただ近所を歩くだけでも、いろんなネタが転がってるものだ。
ここにも書ききれないくらい。
フェレットおじさんはマジでかわいくて悶え死にしそうだった。
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今日はノリタケの森まで行って来た。枝垂桜がまだキレイだった♡

IMG_6403.JPG今日のノリタケの森の目的は、世界最大級だと言うお雛様を見ること。
写真だと大きさがわかりにくいけど、男雛67僉⊇雛55僂世修Α
しかし、世界最大級って、、、ひな祭りって、日本のものじゃなかったっけ?w

私は過去に10年ほどマイセン風の絵付けをやっていたので、こう言うの見ると
うずうずしてきます。描きたくなってw

ノリタケの森のシンボルである6本煙突のモニュメントの間を
色とりどりの鯉のぼりが泳いでいた。
近くで見るとなかなかの迫力!
GWにはお子様向けの写生大会もあるそだ。
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ノリタケの森で食べたプリンアラモード。(カフェではなくレストラン・キルン特製)

大大好物なのに、実はわけあって、2年以上願掛けしてプリン断ちしていたのですが
最近晴れて解禁。2年も経っていたら、正直どーでもよくなるかと思いましたが
そんなことは全然なくて、むしろ今までの分を取り戻すかのように食べまくる自分に
唖然・・・

130405_MG_0841.jpg130405_MG_0893.jpg「マイヤ・イソラ Maija Isola」(マイヤ・イソラ(1927〜2001) (著) )を読み終えた。


この本を読む人はきっと、マリメッコのデザインが好きで好きで、個々の作品が
どのように生まれたかに興味のある方が多いのかもしれないけれど
私はそれより、むしろこのマイヤという人の人生そのものが興味深かった。

10代後半〜40代で三度の結婚と離婚、その後も恋愛を繰り返し
晩年は最初の結婚相手との間にできた娘と仕事上のパートナーとして共同制作。
最後は娘や孫たちに看取られて亡くなった・・・なんて素晴らしい人生。

そして、忘れてはならないのが、マリメッコ社との恵まれた関係。
この人には天賦の才があったのだけれど、それを開花させえたのは、やはり
マリメッコ社と言う類まれな社風を持った会社と、その創設者アルミ・ラティアとの
信頼関係に基づくモノだったのだと思う。

もしマリメッコ社以外だったら、その才能を消耗させるだけで終わっていた可能性も
あったのかもしれないし、実際そうして散って行った才能もたくさんあるのだと思う。

以下、興味深い彼女の人生の年表をまとめてみた。
1927年3月15日フィンランドの自然豊かなアロランミ村に三姉妹の三女として生まれる。
父マウノは農学者で、楽器演奏や作詞、詩の創作などに優れていた。
母トイニは地に足のついた活発な性格。村で初めて髪を短くした女性。
長女トゥーリッキは作曲や演奏に優れていたが、身体が弱く、妹たちのように
農作業を手伝うことができず、人形遊びをして過ごしていた。
のちに絵の得意な妹たちをその遊びに引きこみ、人形の家の制作や遊びは
1949年(マイヤ22歳)まで続けられた。
次女のイルマは作曲、絵画、演劇に親しんでいた。

1945年(18歳)春に父マウノ急逝。7月にゲオルグ・レアンデリンと結婚。
1946年1月に長女クリスティーナ誕生。
1946年8月(19歳)芸術大学に入学。(ヘルシンキへ引っ越し)
        (クリスティーナは母トイニに預ける)

1948年夏(21歳)初の海外旅行(ノルウェーのオスロ)。ゴッホやムンク
古い器や壺に心を奪われる。
1949年(22歳)。オスロで見た美術作品に影響を受けて生まれた作品のひとつ
「Amfora」がマリメッコの創設者アルミ・ラティアの目に留まり、商品化される。

この頃、最初の夫・ゲオルグ・レアンデリンと離婚。画家ヤーッコ・ソメルサロ
(ヤスカ)とヨーロッパ中を旅して回る。
ヤスカとの生活の中で、絵画への関心がより高まって行くが、「芸術家」の
彼の前ではアシスタントのようなものだったマイヤは、彼に隠れて絵画制作を行う。
1955年(28歳)ヤスカと離婚後、絵画制作を本格的に始める。

1959年(32歳)絵画を高く評価する裁判官ヨルマ・ティッサリと結婚。
この頃、マイヤはマリメッコとの契約関係に不満を持ち辞めてしまう。
ヨルマは、マイヤとマリメッコ社との調停役になり、新しい自由な形での契約を結ぶ。 

1964年1月(36歳)クリスティーナに子供誕生。マイヤおばあちゃんになる。

この頃、マリメッコ社のトレードマークになる「Unikko」誕生。
ファブリックに花を使うことを長年禁じていたアルミ・ラティアも
マイヤの作品を見て考えを変えた。

1965〜1968年(37〜41歳)パリに滞在。

1969年(42歳)フィンランドに滞在し、クリスティーナと共同で仕事をする。
       夏に母・トイニ逝去。

1970年(43歳)パリ滞在。エジプト人のアハメド・アル・ハガギ博士と出会う。

1971年9月(44歳)ヨルマと離婚。

1971〜1974年(44〜47歳)アルジェリア滞在。

マイヤの人生で、もっともドラマティックでかけがえのない日々。
婚約者のいるモハメドに激しい恋をして敗れ、アルジェリアを去る。

1976年春(49歳)パリ滞在。アハメドとの至福の時間。

1977〜1979年春(50〜52歳)アハメドとアメリカ滞在。米国でのビジネス模索。

1980〜1987年(53〜60歳)フィンランドでクリスティーナと共同制作。

1987年(60歳)マイヤ引退。

1991年(64歳)新しくマリメッコ社の代表取締役となったパーッカネン氏は
マイヤのデザインにほれ込んで、Fandangoの復刻版を制作、大成功を収める。

1990年代後半(70歳前後)マリメッコ社の伝統的なデザインに注目が集まる。
アートディレクター、ヒルッカ・ラヒカイネンが「マイヤ・イソラ〜クラシック
コレクション」発表。

2000年9月(73歳)末期的な病にかかる。

2001年3月3日(73歳)逝去。


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