トリモノ帖

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2010年6月26日 スントーン プー生誕 224 周年

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2010年6月26日スントーン プー生誕 224 周年

スントーン・プー(Sunthorn Phu、สุนทรภู่、1786年 - 1855年(タイ仏暦2329年 - 2398年))はタイの詩聖と呼ばれる大詩人。1986年には生誕200周年を記念してユネスコの祝賀を受け、賞賛された。

本名はただ単にプーである。王族出身ではなく平民出身であった。2歳の時に両親が離婚し、父は田舎のラヨーンに帰り、母は再婚し後宮で副王の長子の乳母の職をえた。プーはトンブリーにあるチーパカーオ寺(シースダーラーム寺)に預けられそこで学んだ。
学問をためると還俗して役所の書記となった。そのうち相聞歌にこり始めたが、非常に上手く役所内では評判の物書きとなった。しかし、後宮のチャンという女性と恋仲になり、ラーマ1世の王子の怒りにふれ、二人とも牢屋に入れられた。20歳で許され出獄すると、ラヨーンの父の元を訪れた。このときに書かれたのが『クレーン紀行詩(ニラート)』である。
まもなくバンコクに帰り、チャンとの結婚を許され落ち着くが長続きせず離婚。その後4人の女性と結婚したが、酒癖が悪くいずれも長続きしなかった。
一方で『クレーン紀行詩』によりその文才を認められ始めた、プーはラーマ2世により宮廷歌人の職を仰せつかり、ター・チャーン(王宮近くの舟場)付近に住居を賜った。しかしその後、酒によって王族を殴ったため、再び牢屋に入れられた。このころから『アパイマニー王子物語』の著作を始めたと言われる。
しばらくはプーは忘れ去られていたが、ラーマ2世がある時、詩作に困りふとプーの顔を思い出したため、釈放の運びとなった。釈放された彼は、クン・スントーンウォーハーン(ขุ่นสุนทรโวหาร)の名を賜った。この爵位名の一部と本名を合わせてスントーン・プーと通称がつかわれることとなる。この後、宮廷内では熱弁を奮い、タイ古典文学史上最高作品と言われる『クン・チャーン=クン・ペーン』などの作品の共作をしたりするようになった。プーの黄金時代である。
しかしラーマ3世が即位するとプーは官位は剥奪された。そのためワット・ラーチャブーラナ(仏教寺院)で出家をした(当時人生に悪い変化があると出家をするのがタイの習慣であった)が、再び酒を飲み(上座部仏教の戒律違反)で僧籍を追われ、アユタヤー、スパンブリーなどを放浪した。再びバンコクに帰るとワット・ポー(仏教寺院)に僧籍を於いたが、再びアユタヤーを放浪した。再びバンコクに帰るとワット・マハータート(仏教寺院)で出家した。このころ、プーにはある王族のファンがいたが、その王族が死んでしまったため、小舟を仕立てて行商の旅に出た。このころ数種の作品を仕上げた。
しかし後にピンクラオ親王がプーを再び王宮に引き抜いた。この辺りで『アパイマニー王子』が完成したと見られている。その後複数の詩を書いた。ラーマ3世が崩御し、ラーマ4世が即位すると、以前よりも高い官位プラ・スントーンウォーハーン(พระนสุนทรโวหาร)に叙された。その後作品いくつか残し死んだ。

スントーン・プーの人生は波乱に満ちた人生であった上、民衆に最も近い古典文学者であるためいろんな伝説を生んだ。日本で言えば一休さんのような存在である。有名なものを以下に挙げる。
・プーは酒を飲むと口がものすごく早かった。酒を飲んで程良く酔いが回ると勢いで作詩を始めた。そこで筆記官が二人がかりで筆記しようとしても、とうてい間に合わなかった。
・ラーマ2世の時、プーは後のラーマ3世の詩作の講師であったが、プーが何かに付けラーマ3世の作品に文句を付けていたのでラーマ3世は即位するとプーから官位を剥奪した。
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