トリモノ帖

鳥に関するあらゆるコト。あらゆるモノ。

世界中の鳥好きさんに捧ぐ。

2010年6月29日 アントワーヌ ド サンテグジュペリ生誕 110 周年

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2010年6月29日アントワーヌ ド サンテグジュペリ生誕 110 周年

アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ
(Antoine Marie Jean-Baptiste Roger, comte de Saint-Exupéry、1900年6月29日 - 1944年7月31日)は、フランスの作家、操縦士。

郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。
読者からは「サンテックス」の愛称で親しまれる。

リヨンの伯爵の子として生まれる。
兵役(志願)で陸軍飛行連隊に所属し、退役後は自動車販売員などに就業した後、民間航空界に入る。

1926年、26歳で作家として本格的にデビューし、寡作ながら以後、自分の飛行士としての体験に基づいた作品を発表。
著作は世界中で読まれ、後に敵となるドイツ空軍にも信奉者はおり、サン=テグジュペリが所属する部隊とは戦いたくないと語った兵士もいたという。

大戦中、亡命先のニューヨークから、自ら志願して再度の実戦勤務で北アフリカ戦線へ赴く。1944年7月31日、フランス内陸部を写真偵察のため、ロッキード F-5B(P-38の偵察型)を駆ってボルゴ飛行場から単機で出撃後、地中海上空で行方不明となる。

その行方は永らく不明とされていたが、1998年9月7日、地中海のマルセイユ沖にあるリュウ島近くの海域で、サン=テグジュペリや妻の名などが刻まれた、ブレスレットとみられる銀製品がトロール船によって発見された。

『夜間飛行』(1931年)と『人間の土地』(1939年)は、ベストセラーとなり代表作として高い評価を受け、現在でも世界中で広く愛読されている。
『戦う操縦士』(1942年)は、ヒトラー『我が闘争』に対する「民主主義の側からする返答」として高く評価された。
『星の王子さま』は、自身で描いた素朴な挿絵も含め世界各国で長く愛読された作品。

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2010年6月26日 スントーン プー生誕 224 周年

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2010年6月26日スントーン プー生誕 224 周年

スントーン・プー(Sunthorn Phu、สุนทรภู่、1786年 - 1855年(タイ仏暦2329年 - 2398年))はタイの詩聖と呼ばれる大詩人。1986年には生誕200周年を記念してユネスコの祝賀を受け、賞賛された。

本名はただ単にプーである。王族出身ではなく平民出身であった。2歳の時に両親が離婚し、父は田舎のラヨーンに帰り、母は再婚し後宮で副王の長子の乳母の職をえた。プーはトンブリーにあるチーパカーオ寺(シースダーラーム寺)に預けられそこで学んだ。
学問をためると還俗して役所の書記となった。そのうち相聞歌にこり始めたが、非常に上手く役所内では評判の物書きとなった。しかし、後宮のチャンという女性と恋仲になり、ラーマ1世の王子の怒りにふれ、二人とも牢屋に入れられた。20歳で許され出獄すると、ラヨーンの父の元を訪れた。このときに書かれたのが『クレーン紀行詩(ニラート)』である。
まもなくバンコクに帰り、チャンとの結婚を許され落ち着くが長続きせず離婚。その後4人の女性と結婚したが、酒癖が悪くいずれも長続きしなかった。
一方で『クレーン紀行詩』によりその文才を認められ始めた、プーはラーマ2世により宮廷歌人の職を仰せつかり、ター・チャーン(王宮近くの舟場)付近に住居を賜った。しかしその後、酒によって王族を殴ったため、再び牢屋に入れられた。このころから『アパイマニー王子物語』の著作を始めたと言われる。
しばらくはプーは忘れ去られていたが、ラーマ2世がある時、詩作に困りふとプーの顔を思い出したため、釈放の運びとなった。釈放された彼は、クン・スントーンウォーハーン(ขุ่นสุนทรโวหาร)の名を賜った。この爵位名の一部と本名を合わせてスントーン・プーと通称がつかわれることとなる。この後、宮廷内では熱弁を奮い、タイ古典文学史上最高作品と言われる『クン・チャーン=クン・ペーン』などの作品の共作をしたりするようになった。プーの黄金時代である。
しかしラーマ3世が即位するとプーは官位は剥奪された。そのためワット・ラーチャブーラナ(仏教寺院)で出家をした(当時人生に悪い変化があると出家をするのがタイの習慣であった)が、再び酒を飲み(上座部仏教の戒律違反)で僧籍を追われ、アユタヤー、スパンブリーなどを放浪した。再びバンコクに帰るとワット・ポー(仏教寺院)に僧籍を於いたが、再びアユタヤーを放浪した。再びバンコクに帰るとワット・マハータート(仏教寺院)で出家した。このころ、プーにはある王族のファンがいたが、その王族が死んでしまったため、小舟を仕立てて行商の旅に出た。このころ数種の作品を仕上げた。
しかし後にピンクラオ親王がプーを再び王宮に引き抜いた。この辺りで『アパイマニー王子』が完成したと見られている。その後複数の詩を書いた。ラーマ3世が崩御し、ラーマ4世が即位すると、以前よりも高い官位プラ・スントーンウォーハーン(พระนสุนทรโวหาร)に叙された。その後作品いくつか残し死んだ。

スントーン・プーの人生は波乱に満ちた人生であった上、民衆に最も近い古典文学者であるためいろんな伝説を生んだ。日本で言えば一休さんのような存在である。有名なものを以下に挙げる。
・プーは酒を飲むと口がものすごく早かった。酒を飲んで程良く酔いが回ると勢いで作詩を始めた。そこで筆記官が二人がかりで筆記しようとしても、とうてい間に合わなかった。
・ラーマ2世の時、プーは後のラーマ3世の詩作の講師であったが、プーが何かに付けラーマ3世の作品に文句を付けていたのでラーマ3世は即位するとプーから官位を剥奪した。
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