『生誕130年記念 藤田嗣治展-東と西を結ぶ絵画-展』(名古屋市美術館)

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イエローモンキーとフジタ、どちらも最高♡*\(^o^)/*


さて、本日7月3日(日)がラストとなった
「生誕130年記念 藤田嗣治展-東と西を結ぶ絵画-展」
ギリギリ何とか昨日の土曜日に行って参りました〜

私にとってはこれはもうリベンジ!
2006年に開催された「生誕120年 藤田嗣治展」
当時は都内に住んでいたのですが、東京都近代美術館でのこの展示
行き損ねたんですよ〜
も〜ホントそのことがずっとずっとずっと悔やまれていて!

でもでも、前回120周年は約100点だったのが、今回約150点も
出展されたそうで。う、うれしいっっ!!
しかも近年ランス市に寄贈された未公開作品も多数!!
あーホント、大大満足な展覧会でした!

相変わらず素晴らしいフジタの乳白色の裸婦や子供の絵は健在で
特に20年代の若いころの面そう筆の線の細さ、均一さは神業!
一体どーやったらこんな線が描けるんだろう?としみじみ絵を見ても
そんなのわかるわけないですよねぇ。。。

日本画的なマットな質感の肌に、西洋絵画らしくキッチリと
筋肉の動きまでわかるような影が入り
そんなに濃く入っている訳では無いのに、ちゃんと量感、質感や
表情を感じさせる繊細な表現が、本当に本当に素晴らしい・・・

展示に脚を運ぶ楽しみの一つが、それまで遠巻きに見ていた
画家の素顔に触れることです。
素顔に触れて「本人は好きなこと出来てよかっただろうけど
「周りは大変」って思うこともあれば(ピカソとか!)
ダリのように、略奪婚したガラを生涯愛し続けて
ガラの亡き後、後を追うように直ぐに亡くなってしまったと知り
意外に純粋な一面に、ますますその画家への想いが増したり。

ダリも遠巻きに見ていた頃は、変わり者でひょうひょうとした
自由人でかっこいい人と言う感じでしたが
フジタも同じようなイメージでした。
フランスで一番認められた日本人画家として確固たる地位を
築いたフジタは、羨望のまなざしで見られることはあっても
悩むことなんて無かったのでは?と思っていたのです。

ただ、近代美術館の常設展で、フジタの戦争画を見るたびに
なぜフジタはこの絵を描いたのかと不思議に思いました。
乳白色の絵を描いたフジタの美学にはそぐわない気がしたから。

ピカソとフジタは、フジタがフランスに帰化後も死ぬまで
交流を続けますが、二人ともよく画風を変えることから
フジタは東洋のピカソと呼ばれていたそうです。

でもピカソが自信満々に次々と技法を変えて行ったのに対して、
フジタは迷いから、様々な技法に取り組んで行ったように感じました。
意外と自分の絵に自信のない人だったようです。

幼少時から認められたピカソと違って、学生の頃はフジタの
絵の成績はよくなかったこともその一因なのかもしれません。

私たち人間には、祖国だとか出身地で認められることって、
アイデンティティの上で大事なことなんでしょう。
フランスやベルギーで勲章を授けられて、パリの寵児となっても、
フジタは祖国日本で認められたかった。
そんなフジタの純粋な想いが、彼を戦争画へと駆り立てたんですね。

けれど、日本の画壇は最後までフジタを認めることなく、
むしろ彼の戦争責任を糾弾しました。
フジタは祖国を追われ戻ったフランスで帰化し、キリスト教に改宗。
レオナール・フジタとして、二度と日本の地を踏むことなく亡くなります。

そう言った経緯を知らなければ、フジタが日本を捨てたように
見えますが、彼は
「私が日本を捨てたんではない。私は捨てられたんだよ」
と言っていたんだそうです。哀しいですね。。。

フランスに帰化後は、昔の乳白色の絵に戻ってどんどん創作。
そして、宗教画に意欲的に取り組んで行きます。
最終的に救われたのは宗教だったのかな。その宗教の絵に
のめり込むことがフジタに最後に残された安らぎだったのかな。
そんな風に感じました。

日本に認められるために必死に戦争画に取り組み、また晩年は
自分を救ってくれたキリスト教のために宗教画に取り組む。
失礼な言い方かもしれませんが、何といじらしい人だったんだろう
と思います。
おかっぱに眼鏡のトリッキーな人物像とはおよそかけ離れた、
純粋過ぎる人柄が見えてきます。

フジタは生涯で5人の妻を持ちますが、たぶんそんな彼は女性を
放って置けないと思わせる魅力のある人だったんだろうなぁと想像します。

若いころから40代ごろまでは、若い外国人女性との短い関係を
続けてきましたが、最終的に日本人女性君代さんと出会い
生涯添い遂げられて、よかったなぁと思います。
フジタの中で、君代さんに認められることで、少しは日本に
認められたかのような、慰めになったのではないでしょうか。

東と西に引き裂かれた生涯。。。まさにそんな感じで、ほんのり
切ない気持ちで会場を後にしました。
そういえば、フジタは5回も結婚しているけれど、子供はいません。
だから、彼の描く子供は彼の中の理想の子供なんだそうです。。。
それも何だか切ないですね。。。


前回の120周年は名古屋は巡回してくれなかったようで、今回来てくれて本当にうれしい〜〜!!
中日新聞さん、ありがとうございます♡


本物はどっち?!
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2015年10月発売の実話エッセイ。アトピーって痒いだけの病気じゃないんです。


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http://www.leonard-foujita2016.com/
名古屋展
会  期2016年4月29日(金・祝)〜7月3日(日)
休 館 日毎週月曜日(5月2日は除く)
開館時間午前9時30分〜午後5時、金曜日(4月29日は除く)は〜午後8時
(いずれも入場は閉館30分前まで)
会  場名古屋市美術館
〒460-0008 名古屋市中区栄2-17-25 芸術と科学の杜・白川公園内
お問い合わせ 電話052-212-0001
主  催名古屋市美術館、中日新聞社、NHK名古屋放送局
後  援在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本アンスティチュ・フランセ日本
愛知県・岐阜県各教育委員会、名古屋市立小中学校PTA協議会
協  賛積和不動産中部、トヨタ自動車、野崎印刷紙業
特別協力ランス美術館
協  力日本航空、日本貨物航空、名古屋市交通局、JR東海、名古屋鉄道、近畿日本鉄道

藤田嗣治展
名古屋展 兵庫展 府中展

開催趣旨
日本とフランスを巡る文化の交流は、19世紀の「ジャポニスム」以来、さまざまに豊かな成果を生みだしましたが、その象徴的な存在が藤田嗣治(1886-1968)の芸術です。27歳で初めてフランスに渡って以来、81年の生涯のほぼ半分を異国で送った藤田の芸術は、まさに東と西の文化の上に誕生したものでした。陶器を思わせる滑らかで鈍い光沢を放つ「素晴らしい白い下地」の上に引かれた、均一にして流麗な線によって浮かび上る美しい裸婦の姿。ヴォリュームと線、写実と装飾という対立する二つの要素を、ヨーロッパの伝統的な主題の上で見事に融合してみせたその芸術は、藤田を一躍パリ画壇の寵児に押し上げました。
しかし、東西の豊かな土壌の上に新たな芸術を花開かせた藤田その人は、一方で二つの文化に引き裂かれる苦しみを味わいます。大きな成功を手にした後も繰り返し浴びせられる毀誉褒貶。戦争画の問題を巡る過熱した責任論は、二つの世界に生きた藤田が背負わされて重い十字架でした。その心の苦しみを癒すかのように、最晩年の画家はランス礼拝堂の建設に残された生命を注ぎ込み、完成から1年半足らずでこの世を去ります。東西融合の喜びと苦しみを一身に引き受けた生涯でした。
今回の展覧会は、東と西の間に花開いた藤田嗣治の芸術の全貌を紹介するものです。国内外の主要なコレクションをはじめ、近年ランス市に寄贈された未公開作品多数を含む、150点の代表作による本展は、複雑にして多画的な要素を持つ藤田芸術真髄に触れる絶好の機会となるでしょう。


1章 模索の時代
1909年〜1918年
藤田嗣治が画家を志したのは、高等師範学校の中学部に入学した14歳の頃といわれています。陸軍の軍医を勤める厳格な父は、意外にも息子の希望を認め、その背中を後押しします。東京美術学校(現東京藝術大学)の西洋画科に学び、卒業後の1913年には憧れのパリの地を踏みました。しかし、翌年には第一次世界大戦が勃発。仕送りも途絶え苦しい生活の中で、独自の作風を確立すべく試行錯誤の日々が続きました。

2章 パリ画壇の寵児
1919年〜1929年
パリ到着後の藤田は、日本で学んだ油絵の技法がいかに古臭く、また不自由なものであったかを痛感し、新たな技法の創造に邁進します。その成果は戦後初のサロン・ドートンヌでの6点入選として表れ、間もなく乳白色の下地に流麗な線で描かれた裸婦が注目を集めるようになります。数多くの異邦人画家が活躍し、後に「狂乱の時代」と呼ばれる1920年代のパリに於いて、藤田は画壇の寵児として大きな成功を手にします。

3章 さまよう画家
1930年〜1937年
パリに腰を据え、画家としての名声を確立した1920年代に対し、続く1930年代の藤田はアメリカから中南米、中国、そして日本と、各地を転々としながら制作を続けます。それにあわせるように作風も大きな振幅を見せ、1920年代には見られなかった鮮烈な色彩や風俗的な主題が頻繁に画面に登場するようになります。一方で、壁画を意図した大画面作品にもたびたび取り組み、藤田の創作世界は一気に広がりを見せます。

4章 戦争と国家
1938年〜1948年
満州事変の勃発以後、急速に軍国主義化を進める国家の要請に応じ、画家たちは協力を余儀なくされましたが、中でも藤田は先頭に立ってその期待に応えました。パリでの名声だけでなく、本当の意味で祖国に受け入れられたいとの思いは、藤田を戦争画の制作にのめりこませます。大画面に繰り広げられる戦場の様子は、やがて単なる事実の記録を超えて、陰惨にして悲劇的な戦争の本質に迫る表現へと変化していきます。

5章 フランスとの再会
1949年〜1963年
膨大な戦争画の制作と国家への恭順は、戦後の藤田に戦争責任という思い十字架を背負わせます。画壇の仲間たちからの誹謗中傷に深く傷ついた彼は、追われるようにして祖国を後にし、二度と戻ることはありませんでした。再会したフランスで、その傷を癒すように藤田の画面には懐かしいパリの街並みや、愛らしい子供たちの姿、さらには裸婦などが繰り返し登場するようになり、日本国籍を捨てた画家はレオナール・フジタを名乗ります。

6章 平和への祈り
1952年〜1968年
晩年の藤田は、それまであまり取り組むことのなかった宗教画を手がけるようになります。とりわけカトリックの洗礼を受けた1959年以降、その数は急激に増え、晩年の全精力を注いだランスの平和礼拝堂(通称フジタ・チャペル)の建設に結実していきます。日本とフランス。二つの文化の間で揺れ動き、花開いた藤田の芸術。その喜びと苦しみを一身に背負いながら東西の架け橋となった画家は、最期に平和への祈りを捧げたのです。

映画『Foujita』で藤田嗣治役を演じたオダギリジョーさんが、音声ガイドの語りを担当します。
解説時間:約30分
貸出料金:520円(税込)※お一人様一台につき
[語り]オダギリジョー
[ナレーター]玉川砂記子


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