「対岸の彼女」角田光代・著

050327sweets.jpg本は常に読んでいるのだけど、なかなかここに感想を残せない。でも今回は、思うところがあって、残しておこうと思う。

読む前の予備知識は、この本は、「いわゆる『勝ち犬』と『負け犬』の友情物語である」ということだったけれど、読み終わってみると、著者の意図は、全然そんなのとは違うよなぁ、と思う。   
   
よく、年をとると、本当の友情は育ちにくいと言う。結婚していたり独身だったり、子供がいたりいなかったり、仕事を持ってたり、専業主婦だったり、そんな立場の違いを超えて理解し合うのは確かに難しい。そういうときに「みんながただ未来の夢を語っていればよかった、高校生くらいの頃とは違う」と言うようなことがよく言われるが、果たしてそうだろうか。この物語は、30代半ばの現在と、高校生だった20年前を行き来しながら、いつの頃も同じように、ささいな違いを見つけては、共通の敵を作り出し、それで団結を強めると言うような、女性の特性(?)と、どこにでも存在する、いじめの構図が描かれている。


主人公・小夜子は疑問を投げかける。「何のために年をとるのだろう」そして、最後に答えは導き出される。そう、出逢うためなのだ。きっとどこかにいる、きっとめぐり逢う、本当に出逢うべき相手と。

それはきっと、そんなに簡単でもないだろうし、そんな大勢じゃない。たったひとりでいい。確かに、その「たったひとり」を見つけるのは、そんなに容易い事ではないだろう。ましてや、大人になってからの出逢いで、というのは、とても難しいのかもしれない。

わたしは、それほど人付き合いは広い方ではないのだが、大切な友人が何人かいる。とはいえ、実家のある名古屋に帰省するのは年に数回なので、その友人とも年に一度会えればいい方である。画像は、三月に友人の家を訪れたときに、出してくれたもの。もう描いた本人も忘れていた作品。そう、わたしの絵付けしたものなのだ。

彼女の家には、玄関にもわたしの描いたプレート(飾り皿)が飾られ、もう10年以上も前の新婚旅行のお土産のドライフラワーのアレンジの額が(同じものを買ったはずの我が家にはもうないのに)置かれていた。それだけでなく、拙いトールペイントで描いたネームプレートも表札の横に揺れていた。これは一度金具が壊れたのを、旦那さまが直してくださったのだそうだ。でも描いた本人は、そんなものを自分が描いたことすら忘れていた・・・

「わたしんちって、かなりカヨちゃん(本名)の作品であふれてるよ」ともうじき1歳になる男の子をだっこしながら、彼女は笑った。

彼女とは、もう20年近い付き合いなのだが、わたしのほうが2年ほど先に結婚して、既婚者 × 独身者。彼女もやがて結婚して、でも仕事は続けていたので、専業主婦 × 有職主婦。そして今は彼女は母となり、常に立場は微妙に違うのだけど、それでも何だかうまく行っている。20年も付き合っているから、というのもあるのだろう。もちろん、その間にはお互いに葛藤もあったけれど、それでも離れずに来た。それって、理屈じゃないのかもしれないな。

この数日前には、別の友人とも会った。こっちは、この一年で一気に結婚・出産を終えてしまった強者。この彼女とも、ずっと立場は違うのに、溝と言うのを感じたことはない。もちろん、わたしにもどうしようもなく溝を感じる相手はいる。というより、ほとんどの場合は、心から理解し合うのは難しいと思う。でもそれを憂いたりはしない。だってそれの方が普通なのだから。わかり合えないのが普通。だからわかり合おうとする。難しいことだから、わかり合えたときに、よりうれしいのだろう。

話を本編に戻すと、この物語には本当にたくさんの魅力的な人物が出てくる。中でも筆頭は、高校時代の葵の友人のナナコ。彼女の行く末を知りたいと願う読者は多いだろう。そして、葵とナナコがアルバイトをした先の民宿のおばさん・亮子。逆に、出てくる男性陣は、ほとんどがイマイチ。小夜子の夫の修二や、葵の会社のわけわかんない木原と言う男。唯一、葵のお父さんがよかったなぁ。この物語の中での、もう一つのキーは、葵と母親との葛藤でもあると思うのだけど、その後の葵と両親との関係も、気にあるところではある。


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