鍵のブックカバー

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今、ものすごく眠いんですが、理由があって眠れずにいます。明日、チャイナのお教室なので、それまでに描いた作品を窯で焼いてるのですが、いつものことなのですが、グズなわたしは、ギリギリまで描いていて、ようやく窯に入れたのが、夜中の一時過ぎ。窯は400℃を超えるまで、ふたを開けておかなくてはいけないので、だいたい、一時間半は、起きていなくてはいけないのです。上絵付けに必要な温度は、だいたい800℃前後なので、その温度になったら、自動的に止まるように、設定してあります。ふたを閉め終わったら、寝てしまっても平気なのですが・・・そんなときは、本でも読んでいればいいのですが、今読んでる本は、読み出すと、そのまま眠ってしまいそうで(^^ゞポリポリ 

このブックカバーは、先日東京国立近代美術館に行ったときに買ったものです。何と言うか、ひとめぼれです。こういう布モノは、できるだけ、自分で作ろうとは思ってるんですが、「やっぱり見本が必要よね♪」などと、自分に言い聞かせながら、気づけばレジに立っていました。開くと、INSHO DOMOTOという名前が入っています。(見えません??)これをデザインしたアーティストだというのはわかりましたが、「ドウモト インショウ」??知らないかも・・・てっきり、モダンアートの若いアーティストかと思ったら、かなり有名な日本画家さんでした!!『京都府立堂本印象美術館』→こちらを見ると、晩年は、洋風な抽象画っぽいのも描かれているんですね。

引用・堂本印象について
堂本印象(どうもと いんしょう)
明治24年〜昭和50年(1891-1975)

明治24年京都生れ。本名三之助。明治43年京都市立美術工芸学校を卒業後、しばらく西陣織の図案描きに従事し、大正7年、日本画家を志し て京都市立絵画専門学校に入学。翌8年、初出品した「深草」が第1回帝展に入選した。第3回展では「調鞠図」で特選、また、第6回展の「華厳」では帝国美術院賞を受賞するなど一躍画壇の花形となった。絵画専門学校の教授として、また私塾東丘社の主宰者としても多くの後進を育成、昭和19年、帝室技芸員となった。戦後は、独自の社会風俗画により日本画壇に刺激を与えた。昭和25年、芸術院会員。さらに昭和30年以降は抽象表現の世界に分け入り、その華麗な変遷は世界を驚かせた。多くの国際展にも招かれ、昭和36年には文化勲章を受章した。昭和41年、自作を展示する堂本美術館を自らのデザインにより設立。また、様々な技法を駆使しあらゆる画題をこなす画才は、各地の寺社仏閣の障壁画においても発揮され、多くの作品を残した。昭和50年9月逝去、83歳。なお、美術館は平成3年8月にその所蔵作品とともに京都府に寄贈され、平成4年4月京都府立堂本印象美術館として開館し今日に至っている。


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