ピカソ展 躰[からだ]とエロス

040924picasso_paris.jpg同じく9/22(水)、花と緑の後は、この前の週末に始まったばかりの『ピカソ展 躰[からだ]とエロス パリ・国立ピカソ美術館所蔵』を見ました。同じく現代美術館内で、大きな催しが重なって開催されるのは、忙しい人にとっては、大変ありがたく、有意義な事だと思います。ただ、非常に点数が多いのもあってか、『花と緑の物語展』に比べると、作品が詰め込まれすぎているという感じは否めませんでした。

9/4から、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で、ピカソの2番目の夫人であるジャクリーヌ所蔵のコレクションが、公開されています。つまり、ピカソ晩年の作品であり、画家がもっとも愛し、大切に保存してきたものを、没後、夫人が譲り受けたもので、日本初公開のものがほとんどだそうです。一方、この『躰[からだ]とエロス』は、まだ若きピカソが、最初の妻・オルガと結婚したものの、若い愛人・マリー・テレーズと出会い、そのミューズの若く豊満な肉体への賛美に、全精力を傾けていた頃の作品が中心となっています。この展覧会も、94点もの作品が初公開となっています。


              


2002年には、ピカソの少・青年時代の作品を中心とした「ピカソ天才の誕生 バルセロナ・ピカソ美術館展」、また2003年にはピカソが富と名声を得て活躍し、最初の結婚をする新古典主義時代をとりあげた「ピカソ・クラシック展1914-1925」。そして今、その集大成ともいえる大規模な展覧会「パリ・国立ピカソ美術館所蔵 ピカソ展−躰[からだ]とエロス−」を開催いたします。  本展覧会は、新古典主義に続く1925年から第二次世界大戦前夜の1937年までの作品160点で構成。シュルレアリストと交流した時代の様々な身体表現を、パリ・国立ピカソ美術館が所蔵する作品を中心に紹介します。数多くの女性を愛したピカソの、奔放で力強い作品の数々を十二分に堪能できるまたとない機会といえます。

以下、引用は全てピカソ展−からだとエロス 変貌の時代 1925〜1937年より。ピカソは、何と精力的に、作品を描きつづけた人だったのでしょう。まずは、そのことに、本当に驚きました。注意深く日付を見ると、同じ頃に、まったく違った作風で、多くの絵を残していたことがわかります。しかも、同じ日に、たくさんの絵を描いていたようです。彼は、8万点もの絵を残したそうですが、一枚の絵に、それほど多くの時間をかけなかったのでしょう。きっと、インスピレーションのままに描いて、描きながら、どんどん変化して行ったのでしょう。そこがピカソの天才性であるといえると思います。画家の多くは、生涯同じスタイルで描いた人が多く、また、若い頃にはさまざまなスタイルに変貌していったとしても、晩年には落ちつく画家がほとんどですが、ピカソは、死ぬまで自己の世界を壊しては確立すると言う事を続けていった稀有な芸術家です。

01 身体の変容 

1910年代のキュビズムの作品制作の後、ピカソは新古典主義時代を迎えます。その時代のミューズだった妻・オルガとの、1920年代後半以降の関係の悪化は、彼の絵画の作品世界に、はっきりと表れます。ひときわ目立つ『青いアクロバット』は、音声ガイドでは「不気味なところがない」と言いきっていましたが、どうなのでしょう?すっかり解体されたオルガは、胴体すらなくなって、手足の直接生えた、青い人になっています。
1924年10月、ブルトンの「シュルレアリスム宣言」以来、シュルレアリスム運動が盛んとなり、ピカソもその潮流の近くに身を置いていました。1917年の結婚から10年、妻オルガとの幸せな結婚生活は終わりを告げようとしていました。上流階級の生活、オルガの物欲、名声欲にピカソは辟易とします。

02 アトリエ:画家から彫刻家へ

ピカソは、その頃に、新しいミューズであるマリー・テレーズと出会います。バカンスを家族と楽しみながら、こっそりと愛人とそこで落ち合い、海辺の若い愛人を描きながら、また、アトリエでの画家とモデルの物語を描き始めます。この頃、ピカソは詩人・アポリネールの墓標モニュメントの依頼を受け、その制作に没頭します。この頃の素描やデッサンにも、このときの墓標モニュメントのデザインの元になったと思われるものが、繰り返し登場します。なお、この墓標モニュメントは、実際には奇抜過ぎると言う事で、採用されなかったそうです。彼にとって、正式に勉強した事のない彫刻は、苦手分野でもあったようですが、大変熱中し、マリー・テレーズをモデルにしたものも多く制作されます。
そんなとき、1927年1月8日、ピカソは一人の「ミューズ」との運命的な出会いをします。冬の寒い午後、ラファイエット百貨店の前の地下鉄の出口から出てきた金髪の娘マリー=テレーズ・ワルテルと出会い、一目惚れするのです。マリー=テレーズ17歳、ピカソ45歳のことでした。「ピカソです。私と一緒に偉大なことをしましょう!」が第一声の口説き文句でした。妻オルガとのいさかい、人目をはばかる若い女性との恋。生涯で最も激しく情熱をその制作に反映させていきました。

03 アナトミーとカップル

今回は、エロスがテーマと言う事ですが、油彩は、肉感的な表現にとどめているものの、素描に関しては、あら♪こんなの子供に見せていいの?と、思わず目を覆ってしまうような(きっと米国では、18禁にされるでしょう、と言う話も聞きました)露骨な作品も見られました。男女の結合した、まさにその場面を描いた素描が、最初は丸い人間らしい表現であったのが、何枚か書き進めていく内に、まるで機械のような、記号のようなものに変貌していく様子など、とても興味深いものがありました。

この頃、ピカソはシュルレアリズムに近づきますが、彼らとピカソとの大きな違いは、シュルレアリストは、非現実的な世界を描いたのに対し、ピカソは、非現実的な表現を用いながらも、描く主題そのものは、現実的なものであった、という事のようです。

04 肉体の賛美

マリー・テレーズは、豊満な肉体と、ギリシャ的な鼻の高い、美しい金髪の女性だったそうで、45歳と17歳の人目をはばかる恋に、彼は生涯で一番情熱を注いで、作品制作に取り組んだそうです。彼は、自分にしか見る事のできない恋人の姿を描くことに熱中し、デフォルメされた中に、ピカソの強い愛情と賛美を感じ取る事のできる《庭の中の裸婦》《横たわる裸婦》は素晴らしいです。どちらも、特筆すべきは、色彩の美しさで、絵から幸福感がにじみ出ていて、見るものを、優しく暖かな気持ちにさせてくれる絵だと思います。1934年には、二人の間に娘・マヤが生まれますが、その頃にはピカソのマリー・テレーズへの恋愛感情は薄れていってしまいます。
マリー=テレーズとの出会いから数年間、家庭生活の崩壊や、政情不安などのせいでしょうか、作品のフォルム(かたち)はねじれ、痙攣し、解体され、激しい表現へと向かい、時には不気味な形となって描かれるようになります。また、この頃、アトリエや彫刻家を主題とした作品も描いています。しかし、1930年代前半には、マリー=テレーズをモデルとした優しい肉体の線を持つ女性が、数多く描かれるようになっていきました。ボワジュルーを舞台とした豊穣な作品は絵画も彫刻もほとんどがマリー=テレーズの姿で占められることとなります。

05 闘牛:愛と暴力のかたち

幸せな愛を描きながらも、ピカソは、暴力的な表現も同時に描いています。フランスでの生活が長いピカソですが、スペイン出身の画家で、この頃に里帰りして見た闘牛が、彼に強い影響を与えたのです。戦争と言う社会情勢もあるのでしょうが、ピカソの生涯のテーマが、愛とエロスであり、男女の愛とは、決して貞淑なものではなく、戦いであると言う信念の元に、自らを、ミノタウロスに見立て、時に暴力や陵辱のシーンも描かれます。この頃、マリー・テレーズとの情熱的な恋は終わり、シュールレアリズムの女流写真家・ドラ・マールとの静かな恋が始まります。
そして、1933年から1937年にかけては、闘牛やミノタウロスをテーマに数多くの作品が描かれます。ミノタウロスはピカソ自身であり、それはアトリエ、閨房、暴力、凌辱などさまざまな題材に変貌していきます。

いやもう、さすが、エロス!ピカソの天才性と長寿の源は、エロスにあったのかもしれません。ちょっとドキドキですが、素敵な展覧会でした(*≧∇≦*)


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