フランス印象派展/ペルシャ陶器展
港区白金台にある「松岡美術館」に、行きました。実業家・故松岡清次郎氏の個人的なコレクションを展示する小さな美術館で、隠れ家的な場所も建物もよく、ひっそりと何度も訪ねたくなる、魅力的な美術館です。もともと、中国陶磁・古代エジプト・ローマなどのコレクションが充実していたようで、さらに、ガンダーラ・インド彫刻、晩年はフランス印象派の絵画まで手を広げて集められたそうです。
5つの展示室があり「古代オリエント美術」「現代彫刻」「ガンダーラ・インド彫刻」「東洋陶磁」「日本画」「フランス近代絵画」となっています。今回は、コレクションの中から、特にフランス印象派の絵画と、ペルシア陶器にスポットを当てて紹介していたようです。日本画とフランス近代絵画の展示室が、印象派展の会場に、東洋陶磁の展示室が、ペルシア陶器の会場になっていました。
ペルシア陶器はかわいらしく、見ていて楽しめましたし、印象派展も、普段はあまり目にしない画家の作品なども見られて、おもしろかったですが、わたしがなにより、心惹かれたのは、ガンダーラ・インド彫刻です。
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まず、わたしがうきゃ〜〜♪と思ったのは、インドの仏像って、ハンサムなの♪(いやん、不謹慎ですか・・・でも周りでもみんな言ってたし)
考えてみたら、わたしたちが見てるような、広隆寺の弥勒菩薩のような顔立ちって、中国人や日本人みたいな、東アジア系のモンゴロイドの顔よね〜。インド人って、みんな彫りが深くて、お目目パッチリなはず〜。なので、そのあたりの出身のお釈迦様も、当然こういうお顔だったはず!
そしてそして、ヒンドゥー教の彫刻は、官能的で躍動的で、素敵なの♪
これは多分、両方とも、破壊の神シヴァ神とその奥さんなんだけど、何とも言えずエロティックで、インドのミュージカルを思わせる、明るい開放感に満ち溢れていませんか?
会場説明より
インド亜大陸に進入したアーリア人のヴェーダ以来のバラモン教と土着民の信仰とか時代とともに融合して、ヒンドゥー教が成立した。宇宙の創造を司るブラフマー、破壊を司るシヴァ、維持を司るヴィシュヌを三大神と位置付けているが、とりわけ後二神が民衆の尊崇を集めている。仏教彫刻が、一般に動きの少ない落ち着いた形姿を示すのに対し、ヒンドゥー教彫刻は、動きと生気に溢れ、官能性に富み、複雑なまでに細部表現にこだわり、エネルギッシュな造形を見せるところに特徴がある。
ぐるぐるめぐるル・コルビュジェの美術館 Fun with Collection 2004
上野の国立西洋美術館は、松方コレクションを展示するために作られたということですが、サブタイトルに「美術館には何を見に行きますか?」とつけられた今回のこの展覧会は、常設展示を、絵ではなく、建物を見に行く、という趣旨で展示を試みた、画期的な展覧会です。
ル・コルビュジェは、この西洋美術館を設計した建築家の名前。彼は、人の体から建築を考えました。美術館も、体を使った万能物差し「モデュロール」で、みんなの体に、ぴったりに作られているのです。堅苦しいありがちな美術館の概念を破った、遊び心いっぱいの仕掛けが、この美術館の随所に見られます。たとえば、寝椅子に横たわって、1階の吹き抜けのトップライトを眺めてみる。そしてまわりの彫刻を見てみると、なるほど、今までとは少し違った目で作品を見られるような気がしてきます。
もちろん、普段の常設展示はそのままに、楽しむ事ができます。そして、西洋美術館の常設展は、実に質・量ともに非常に充実しています。え?まだ部屋があるの?と最後には言いたくなるくらい、本当にたくさんの展示室があって、松方コレクションの膨大さを窺い知る事ができます。そして、近年になっても、どんどんコレクションは増えていっています。中世のテンペラ画に興味があるので、その作品がいくつか見られたのも、わたしは、とってもうれしかったのです。
バラの歴史 〜磁器を舞台に・1997〜2004〜
一番左は、今年のバラ。一つ前に、最近描いたバラの小物たちをUPしましたが、今回のバラは、割と自分では満足の行く出来映えでした。精魂込めて描いたバラは、その時点でのベストなので、人から見れば、拙くても、自分にとっては、いとしい作品たちなのです。
今までに描いたバラの絵を、振り返ってみたいと思います。チャイナを始めた1996年のバラの作品は、残念ながら、我が家には残っていなかったのですが、1997年から、ご紹介して行きますね。
真ん中は、1997年。全体的に拙いですが、花芯が、この頃にしては改心のできばえなんです。
右は、1998年。一色描き。花はまぁまぁですが、全体的に線が固いです。
1999年。真珠の首飾りと言うモチーフ。1996年にも描いたはずなんですが・・・
2000年。展示会のための作品なので、頑張りました。
2001年。「失敗は成功の・・・」のソーサーの真中に描かれたバラ。小さいバラですが、筆がずいぶん慣れて来たかも。
2002年。他はそのときのベストと言えそうなんだけど、これだけは、納得していない作品。
2003年。小さなバラですが、結構繊細に描けたかも。
これ、ハート型の脚付き小物入れなんです。こんな風にアクセサリーを入れています。
バラ・ばら・薔薇
もうじき、展示会が近づいているので、このところ、かなり真面目にチャイナを描いています。「金魚お茶碗」のようなのも、息抜きに描いてみたりはするけれど、普段はもっぱら、こういったバラを描くことが多いのです。とはいえ、これも展示会用ではなく、普段お世話になってる方へプレゼントするために、作ってみました。
こんなあっさりした作品でも、なんだかんだと、数ヶ月の時間を要するのですが、これは全部、お嫁入り先が決まってます。左の写真立てと、下の小さなペントレイは、すでに差し上げてしまいました。先日、植物画の初個展をなさった方へのお祝いに。喜んでもらえたようなので、よかったです(^^)
金魚お茶碗@夏っちゃんぶろぐ と TB People
さて、夏っちゃんも、残り1週間を切りましたねぇ。思ったほど、エントリーできませんでしたが、絶対に載せようと思っていたものが、何とか滑り込みセーフで間に合いました。一応、わたしの手書きの食器なんです。
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今年は、金魚モチーフが流行なのか、あちこちで見かけて、かなりツボにはまっていたわたし。そういえば、白いお茶碗が家にあったっけ?と、早速、金魚ちゃんを描いてみました。普段は、バラとかフルーツなんかを描いてるんですが、こういう身近なモチーフも、楽しいものです(^^)
桜BLOGのときにも、桜のを描きかけてたんだけど、完成しないうちに、終わっちゃったのでした・・・たはは。来年までには、完成させよう・・・。
元になったモチーフは、実家にあったタオルだったのでした。右は、とりあえず描いてみた、水彩のスケッチ。
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『避暑地の猫』 宮本 輝・著
ネットの友人・ともちんのお奨めで、宮本輝さんをポツポツ読んでるんですが、図書館で、ふと目に留まったのがこの本。
あらすじより(講談社文庫)
清澄な軽井沢の一隅に、背徳の地下室はあった。そこでは、全ての聖なる秩序は爛れ去り、人間の魂の根底に潜む、不気味な美しさを湛えた悪魔が、甘い囁きを交わすのだ。尊敬する父も、美しい母も、愛する姉も、そして主人公の少年も、そこでは妖しい光を放つ猫となる。だが、この作品での猫とは何か?
これを読んで、何となく、話の内容は想像がついたんだけど、でも、それ以上に、巧みな心理描写に、引きこまれて読んじゃいました。感想には、あらすじは書いていませんが、これから新鮮な気持ちで読みたい方は、読まないほうがいいかも?
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物語は、平和な家庭の一風景から始まる。裕福な医者一家は、せっかくの休日の軽井沢行きを、雨のせいで、あきらめようとするのだが、そこへ、急患の知らせが入る。しぶしぶ職場に向かう医師が、急患の手術を終えた後、少し前からの入院患者である、無口な青年からの、告白として、この物語は語られる。
悲しく、残酷な物語だった。最初のうち、悪として描かれていた者が、本当はそうではなく、生贄の子羊のごとく、弱弱しい者として描かれていた者が、実は悪魔の化身だったと、誰に想像できるだろう?そして、もっとも弱き者である父親の、唯一の最後の望みだった、主人公の「僕」の中にも、流れる悪魔の血は、父を絶望させ、虚無の中、破滅へと向かわせる・・・・
美しい母の言葉は、どこまでが本音だったのだろう。少年を、犯行へと向かわせた「薄汚い男」というのは、愛人への気遣いから出た言葉ではなかったのだろうか。その「薄汚い男」との間に子供ができていたことを、母は気づいていたのだろうか・・・・
途中、迷い猫を探すブルジョワ夫婦と、その迷い猫に付きまとわれる不思議な青年が登場する。そこだけが、ちょっと常軌を逸した場面なのだが、しっくりと、効果的に「猫」というものを暗示するのに、一役買っている。
そして、少年の淡い恋と、相手の少女のどこまでも清らかな様子が、この背徳の物語の中での、一服の清涼剤となっている。彼女を汚さなかった事が、自分にとっての救いであるという事、それは、自らの手を血で染めずには生きる事を許されなかった、あまりに悲しい宿命を背負った主人公の、最後のよりどころなのだ。それを思うと、あまりにも悲しい。
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